TikTokやSNSの時代における「意識的な書く行為」の重要性について
ヴォルフガング・ミヒェル
Dr.Wolfgang Michel / Michel-Zaitsu
九州大学名誉教授・日本学者
はじめに
スマートフォンの通知やショート動画が絶え間なく注意を奪う現代において、「書く」という行為はかつてないほど重要な意味を持つ
ようになっています。TikTokやInstagram、X(旧Twitter)などのSNSプラットフォームは、私たちの生活に深く浸透し、情報の
消費スピードを劇的に加速させました。しかし、その便利さの裏側で、私たちは何か大切なものを失いつつあるのではないでしょうか。
意識的に「書く」という習慣こそ、その失われつつあるものを取り戻す鍵となります。
SNS時代が私たちの思考に与える影響
■ 断片化注意力
TikTokをはじめとするショート動画プラットフォームの台頭により、私たちは15秒〜1分程度のコンテンツを次々と消費することに
慣れてしまいました。神経科学の研究によれば、この「次々に切り替える」行動は、脳の集中力を維持する能力を徐々に低下させるこ
とが示されています。マイクロソフト社の調査では、人間の平均的な集中持続時間が2000年の12秒から2015年には8秒へと減少
したとも報告されています。
スクロールを繰り返す行動はドーパミン分泌を促し、「もっと見たい」という衝動を生み出します。これはギャンブルや依存性のある
行動と類似したメカニズムです。私たちは気づかないうちに、深く一つのことを考える能力よりも、素早く複数の情報を処理する能
力を優先するよう、脳を訓練してしまっているのかもしれません。
■ 表層的な情報処理への慣れ
SNSの情報は、基本的に「消費されること」を前提に設計されています。いいねやシェアは瞬時に行われ、コメントも短く、感情的
な反応が優先されます。このような環境に浸り続けると、複雑な文章を読んだり、多角的な視点から物事を考えたりする「深い情報
処理」が難しくなってきます。
読書家で知られる教育者たちは、最近の学生が長い文章を最後まで読みきれないケースが増えていると指摘しています。これは知的
能力の問題ではなく、習慣とメディア環境が形成した「注意の使い方」の変化によるものです。
「書く」という行為が脳と心に与える効果
■ 精神の安定とマインドフルネス効果
書くことは、一種のマインドフルネス実践として機能します。ペンを持って紙に書く、あるいはキーボードでゆっくりと文章を組み
立てるとき、私たちは「今この瞬間」に引き戻されます。過去への後悔や未来への不安から離れ、自分の内側と向き合う時間が生ま
れます。
心理学者のジェームズ・ペネベーカー(University of Texas)の研究では、感情や体験について書くことが、ストレスホルモンの低下、
免疫機能の向上、心理的ウェルビーイングの増進に繋がることが示されています。「表現的筆記(Expressive Writing)」と呼ばれるこ
のアプローチは、トラウマの解消にも有効とされています。
特に日記や感謝ノートなどの習慣は、日々の感情を整理し、ネガティブな思考のループを断ち切るのに役立ちます。SNSで他者の生
活を羨むのではなく、自分自身の経験や感情に目を向けることで、自己肯定感が育まれていきます。
■ 集中力の回復と「深い思考」の訓練
書くという行為は、一つのテーマに意識を持続させることを要求します。文章を構成し、言葉を選び、論理の流れを整える過程は、ま
さに「深い集中(ディープワーク)」の実践です。コンピューターサイエンティストのカル・ニューポートが『ディープワーク』で説
くように、この能力こそが情報化時代における最も希少で価値ある人的資本になりつつあります。
毎日20〜30分でも意識的に書く習慣を持つことで、散漫になった注意力は徐々に取り戻されます。これはスポーツのトレーニングと
同じ原理です。使わない筋肉は衰え、鍛えれば強くなります。集中力も同様です。
■ 記憶力と学習効果の向上
認知科学の研究は一貫して、「読む」だけよりも「書く」ことが情報の定着に格段に効果的であることを示しています。これは「精緻
化リハーサル(elaborative rehearsal)」と呼ばれるメカニズムによるものです。情報を自分の言葉に変換し、既存の知識と結びつけることで、長期記憶として蓄積されやすくなります。
プリンストン大学とUCLAの共同研究(Mueller & Oppenheimer, 20141)では、ノートパソコンでメモを取る学生より、手書きで
メモを取る学生の方が、概念的な質問に対して高いパフォーマンスを示したことが明らかになっています。手書きはタイピングに比
べてゆっくりであるため、情報を「自分なりに要約・解釈」せざるを得ず、これが深い理解につながるのです。
「書く」ことが創造性と自己理解を深める
■ 創造性の源泉としての書く行為
創造性とは、既存の情報や経験を新たな形で組み合わせる能力です。SNSのコンテンツは「消費」を前提としていますが、書く行為
は本質的に「生産」です。自分の考えを言語化しようとするとき、脳は新しい接続を形成し、思わぬアイデアが生まれることがあります。
多くのアーティスト、作家、起業家が「モーニングページ(朝に意識の流れをそのまま書き出す)」を実践しているのはこのためです。ジュリア・キャメロンの著書『ずっとやりたかったことを、やりなさい』で紹介されたこの手法は、創造性のブロックを解消し、潜在的なアイデアを表面化させる効果があるとされています。
■ 自己理解と価値観の明確化
「自分が何を感じているのか、何を大切にしているのか」を理解するためには、内省の時間が必要です。SNSは常に外部への意識を向けさせます。他者の意見、トレンド、バイラルな話題。一方、書くことは内部への旅です。
定期的に日記やジャーナルを書く人は、自分の強みや弱み、好きなこと・嫌いなこと、人生において本当に重要なことについて、より
明確な認識を持つ傾向があります。これはキャリアや人間関係における意思決定の質を高め、「他人の期待ではなく、自分の価値観に
基づいた人生」を歩む力につながります。
おわりに
TikTokやSNSは私たちに膨大な情報と娯楽を提供してくれます。それ自体は決して悪いことではありません。しかし、情報の「消費者」としてだけでなく、思考の「生産者」としての側面を意識的に育てることが、この時代を豊かに生きるために欠かせないのではないでしょうか。
「書く」という行為は、古来より人間が知識を蓄積し、自己を理解し、他者とつながるための最も基本的な手段でした。デジタル化が進む時代においても、その本質的な価値は変わりません。むしろ、情報があふれるからこそ、立ち止まって書くことの重みが増しています。
今日から、一日たった数行でも構いません。「書く」という意識的な習慣を生活に取り入れることで、思考力・創造力・自己理解が磨
かれ、より充実した人生を歩む一歩となるでしょう
ヴォルフガング・ミヒェル先生

フランクフルト生まれ
日本学者・九州大学名誉教授
主な研究分野
江戸時代以降の日欧関係(日蘭関係)を中心とする東西文化交渉史、医史学、言語文化の比較研究など
経歴
九州大学教授
九州大学大学院言語文化研究院長
九州大学副学長
日本洋学史学会会長
日本医史学会常任理事
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